贈るよろこび、もらう幸せ、プレゼント。
けれど、実際問題、どうだろう。贈る人によっては、何が好きかどんな趣味かも見当及ばず何がいいのか途方に暮れる人もいて、贈られたモノによっては、ありがとうの向こう側に、なんとも言えない忸怩たる思いを噛みしめるようなプレゼントもある。
なぜなら、プレゼントというものは、言わば一瞬にしてまざまざと、贈るひとの配慮、センスの有り無しをどうぞとお目にかける代物であり、ゆえに、日本ではひとにモノを贈るときは、「つまらないものですが」とおそれながら照れながら、「ほんの気持ちです」「心ばかりのお礼に」「お口汚しに」と徹底してへりくだる逃げ口上が、贈り手の気恥ずかしさをやわらげ、もらい手の気遣いを軽くする。
しかしながら、今やわたしも普通にクチにしているプレゼント。カタカナ外来語だけに、そもそもは外国からきた風習。ということは、我思うゆえに我ありという「主体」に満ち溢れた西洋の精神文化では、相手が気に入るかどうかよりも、わたしがこれをあなたにあげたい、贈りたい、ギブしたい!と、いま、この胸にあふれる思いがまず大切。贈ったひとが気に入るかどうか、気に入ってもらえなかったらどうしようと思い煩う逡巡などは、気にしすぎ。そのひとことで済む話といってしまっていいだろう。
贈られた人の気持ちを忖度するより、自分がいいと思ったものを自分の好きに贈る。
とにかく、まずは自分あってのアナタ。
ワタシ贈るアナタ。アナタもらうワタシ。
何に付けてもワタシとアナタなしでは語れない。それが、西洋のプレゼントなのだ。
そして、そんな強靭なワタシ=アイデンティティみなぎる店長の贈り物の数々をまずは、ご覧いただきたい。
アラブ、アジア、アフリカ、遠い外国から帰ってくるたび、スーツケースから次々取り出される土産の品々。それって、いったい、何?
一瞬見ただけでは判別不能なサバンナの草、アラビアの砂漠の砂、地質学的に貴重だと豪語するイランの石をせっせと小袋に詰め分けながら、贈るひとの笑顔を思い浮かべているのか、おだやかな幸福感がこんもり伝わる丸い背中に、わたしは幾度問いかけただろう。
「そんなもんもらって、誰か、喜ぶか?」
「誰が?ハァ?(キミは何を言ってるんだと肩をすくめるジェスチャー付で)エブリバディ・ハッピーさ!」
贈るモノはなんであれ、ぼくがあなたに贈れば、あなたはきっとよろこぶに違いない。どこをどう掘ったらそんな自信が湧いて出るのか、誰ひとり知るよしもない思考の脈が、どうやら店長にはあるらしい。
生来、無精でめんどくさがり屋なわたしなどは、どこか旅行に行っても、よほど親しい友人以外にお土産を買うことはないのだが、プレゼント魔の店長は毎回毎回、是が非でも何かをみんなに買って帰ってくる。
いや、その気持ち、その思い、その真心はやさしいよ、うれしいよ、ありがたいよ店長。ただ、何というか、そう思う気持ちだけで十分なこともこの世にはあるということをどう言えば、「ワタシ、ワカル」日が来るのか。そんな日が来ることは、店長が店長である限り、おまえがおまえである限り永遠にないことを伝えてくれる店長のプレゼント。
思い起こせば5年前。隕石の衝突くらいの衝撃とともに店長と遭遇してしまったわたしだが、正直、日本で会ったのは2回ぽっきり。それからパリに帰った店長からいきなり届いたかなり大きい額入りの写真作品。
そもそも、とくに写真に興味があるわけでもなく、自宅に写真を飾るようなスペースもなければ、欲しいとも何とも言った覚えもない。もっといえば、いっぺんも見たこともない写真を額入りで2点、好みかどうか、いるかどうか、なんの伺いもなく海外から発送してくる突飛な発想。そこに、推して知るべき店長のなんたるかは見て取れたはずだった。なのに、そのときのわたしは、生まれて初めての外国人との交流にアタフタ緊張するばかりで、英語で感謝の意を伝えることしかできなかった。
今なら、その唐突なプレゼントは、自分という存在をわたしの生活の中にガッシリ押し込んでくる意味だったと容易に推察、「誰が欲しい言うたんよ!」と斬り込むこともできるが、5年前のその頃はまだ、そこまでの余裕はなかった。自分本来のひねた目線で、「はは〜ん」と底意地悪く人の腹を探ることを怠っていた。完全に抜かった、見落としていた。わたしとしたことが…。
その後、これが店長ですの紹介がてら、幼い頃、別れたパパのレストランに行ったときのこと。パパ夫妻、弟夫婦とその息子のポートレートを撮ってくれた店長。そして翌年、きっちりその家族写真を現像し、それなりに立派な額に入れ、パパのレストランに寄贈。
それは本当にいい写真で、わたしにも家族と呼べる存在がまだあるのだということを温かくも切なく思わせるものであった。だから、それはすごくありがたく心温まる贈り物ではあることは確かであり、なんの異存もないのだが、それにしてもと考えずにいられないこの違和感はなんだろう。
すると、その写真を見ながらパパがしみじみ捻り出したひとことに、そう、そういうことよ! と膝を打つ。
「まあ、やっぱりな、こうして額入りの写真を贈ってくるという、な。そういうことは、ちょっと、わしらにはできんことや。そんなもん贈られたら、もらったら、そらもう絶対店に飾る。毎日、それ見て、撮ってくれたもんのことを思うがな。アレ(店長)は、アレやな、プレゼントひとつにしても、ちゃんとそこに自分という存在をきっちり置きに来よる。何にしろ、わしらに “ないもん”、持っとることだけは確かやで」
いい意味でも、イヤな意味でも、ないもん持ってる。まさしく、それに尽きる。
それにつけても、なぜ、英語のプレゼント(present)は、現在、今というpresent と同じ綴りなのか。そして、存在を表すプレゼンス(presence)と似た言葉なのだろう。と、英語のコトバからたぐり寄せ考えると、店長世界のプレゼントの意味するところがズッシリ肩にのしかかるように伝わってくる。おそらく、それは、「今、あなたをこれほどに思っているわたしは、ここに!」 と自分の存在を託し、贈り、示すモノ。プレゼントとは、そういう代物なのだ。
サウジアラビアの砂一粒、イランの荒野の石ひとつ、どんなおしゃれなクリエイターのお宅もこれさえ履いてウロウロするば完璧にダサくなること確実なアメリカ・ミズーリー産のフリースパンツetc 、 そんな数々のプレゼントをもらったわたしたちは、そんなつもりはなくとも、そのモノに託されたその存在、そう店長をも受け取ってしまっている。
そして、たとえモノ自体はなんであれ、じわじわとありあまるほど思い知らせるのだ。
はちきれんばかりに詰め込まれた店長のメッセージを。
「ワタシ、ココニ! 」