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April 2018 - さそり座の店長
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26 Apr 2018

最強と最悪、どっちかしかない人生ってナニ!? ノ巻

運がいいとか悪いとか、人が時々くちにする人生イロイロだけでは共感しきれぬ奇怪な運勢を持つ地球上生物、店長。 なぜなら、「さそ店」読者のあなたはとっくにご存知、コロンビアの奥地で石油探索中にテロに拉致され、今日殺されるか明日死ぬかという極限苛酷な捕虜生活2年の末、生還。さらに、アフリカのコンゴでは、現地のギャングに銃とナタを突きつけられ監禁されるも、見張りの隙を狙って命からがら脱出したような経験も、約3回。また、過去の本編にもあるように、NYでは誘拐犯に間違えられ逮捕寸前に追い込まれ、マレーシアでは、宿泊ホテルに戻れば、ホテルがこっぱ微塵にテロ爆破されていたという、人の一生に1度あるかないかの未曾有の惨事も、車の当てこすり事故くらいよくあることととらえて離さぬ店長の人生。 その日常、よくぞそこまでと呆気にとられるほど、あたりまえに、完璧なまでに、見事に異常な店長パターンを見るたび、これはもう運というよりおまえ自身がそういう星なのだと、冷静に忌憚なく、そうとしか思いようがない。 そして、この者。そうした数々のありえない窮地からは絶対にカムバックする空前絶後の強運(ギャラクシーではそれを、店長の “九死に一生カード” と呼ぶ)を持っているかわりに、普通にありえるささやかな「ラッキー!」は驚くほど、哀れなほど、持ち合わせていない。 まず、小さな暮らしの場面からあげつらえば、店長がお気に入りのレストラン、ショップ、商品はことごとくクローズまたは廃番となる。 店長愛用のシャンプー、ボディクリーム、デオドラント等々、「これ買ってきて」と頼まれ買いに行って、それがあった試しは一度もない。 無論、そんなヤツだけに、駐車場探しに1時間はあたりまえ、どこか郊外へとドライブにでかければ、ストライキやパリマラソンなどよりによった間の悪さで通行止め、記憶に新しいところで言えば、ホームセンターの駐車場に入ろうとするなり、クレーン車と警備の者が笛を吹いてやって来て「今から工事なので、この道は通行止め。入れないよ」と、ウソみたいな猛バックを強いられる店長だ。 先日も、ちょっと一杯ビールでもと、店長が以前見かけたというメキシカン・カフェに行こうという誘いにうっかり乗って向かったが、延々、探し回ること30分。 このノドがビールを欲してから30分も歩かされるありえなさに、辛抱たまらんチュンチュンの苛立ちは頂点に。 「あんた、いったい、どこで見たんよ!!」 「ああ、ここ、ここだよ!」と、店長が毅然と指差すその先にあるはずのメキシカン・カフェは、「賃貸」と書かれた空きテナントと化していた。 さらに、わたしは今まで、店長と共に、シンガポール、マレーシア、タイなど様々な国を旅してきたが、店長がブッキングした部屋、設備、内容がそのままその通り受付けられていたことも一度もない。通常ならありえないような手違いが必ず起こる。間違いなく、起きる。いや、起こす。 彼が尋常ではないレベルで持っているのは、そういう魔力だ。 ダブルルームで予約していたのがツインだった。 バスルーム付きで予約したのに、シャワーだけ。 オーシャンビューを予約してカーテンを開ければ、どこにオーシャン? スーペリアな部屋を予約したはずが、部屋はそらもう広々ステキ、しかし、思いっきり空調ボイラー室の横というまさかの間取り。 一晩中、「ゴォォォォォー」、「ブルブルブルッ、ドドドドー」という不気味な騒音を枕に寝るにも寝られない、なんぼなんでも「これはない」部屋を与えられるの当たり前。 あげくに、清掃スタッフが食い散らかしたみかんの皮、読み散らかした週刊誌がベッドの下に転がっている、どこがスーペリア? という現場を目撃するや、すかさず、iPhoneカメラ起動に激写。 それをまたSNSにクレーム投稿という面倒くささを人としての当然の権利と信じ、「これは、ないよなぁ」と笑って済ます術を知らない店長。 たぶん、おそらく、間違いなく、おまえの運の悪さは、すべては己の執拗なさそり座の性に端を発しているとしかいいようがない。 システムの間違いか、何かの手違いでこうなったホテルの不手際を、フェイスブック、インスタグラム、ツィッター、トリップアドバイザーなどあらんかぎりのメディアを通じクレーム発信することに貴重な旅行の1日を費やし、それを見たホテル側は、「こりゃたまらん!」と部屋交換を申し出ざる得ないところまで追い詰める、さそり刑事・テンチョー。 つまり、店長との旅行においては、ああ、やっとホテルに着いたと、スーツケースから衣服、靴、洗面化粧道具すべてのものを取り出しセッティングし、やれやれ、ちょっとくつろがせてもらおうかとベッドに横たわった瞬間に、緊急避難警報を浴びせられる住民のごとき火急の荷造りを強いられるハメになる。 「オールOK(してやったドヤ顔)今、僕は、彼らに、要望通りの部屋を用意させるオーガナイズを完了した。Soハニー、さっそく今から部屋移動のためのパッキングだ!」 いやいやいやいや、もう、ええやん! これはこれで、別にそこまで目くじら立てずとも、「なんやねん!」とちょっと愚痴れば済むような話やん。 悪いけど、この期に及んでは、要望とは違う部屋をあてがったホテルより、おまえのその執拗なまでのオーガナイズ、今からまた荷造りする方が百倍面倒くさくうっとうしいに決まってるやろぉぉぉぉぉ!!!!!! と、旅行初日はバトル曜日。楽しいはずの旅行が一瞬にして険悪極まりない別れの時となるのが店長とチュンチュンの旅のシナリオ。 もはや、わたしの中では、ヤツがフロントデスクにチャックイン。それは下手すれば30分、いや、1時間あまりのネゴシエーションタイムの始まり。 その間はただひたすら、煙突みたいにタバコを吹かし、「もう、ええねんけど…」とイラつきながら待つだけのロスタイム。 そして、ポーターに連れられ、部屋に入り、チップを渡して扉を閉めた途端、掘った穴をまた埋める不毛な作業を繰り返すような「荷ほどき&荷造り」という混沌を味あわされる。それが、店長と行く旅の “しおり” 。   そんなもんと丸4年。なぜ、居るのか?と訊かれたら、返す言葉はひとこと。 「知らなかった」としかいいようがない無知の涙。 ただ、なんだろうか。運命を共にする気などさらさらない、むしろ、できるものなら離れたい、切れるものなら切り捨てたい、が、関わり合ったが百年目。日本のわたしたちが、ことあれば「きずな」というコミットメントとは何かといえば、如何ともしがたい因縁しかないのではないか。 わたしも、そういう因果な性を生きているものではあるが、店長を見ていると、自分の運のなさなど全然まし、むしろ幸運に思えてくるから不思議である。 そして今現在、店長の九死に一生カードは、残り3枚(チュンチュン&アヒル調べ)。 それが切られるときの窮地の程を、できれば知らずに終わりたい。  

10 Apr 2018

“存在” がありあまるプレゼント ノ巻

贈るよろこび、もらう幸せ、プレゼント。 けれど、実際問題、どうだろう。贈る人によっては、何が好きかどんな趣味かも見当及ばず何がいいのか途方に暮れる人もいて、贈られたモノによっては、ありがとうの向こう側に、なんとも言えない忸怩たる思いを噛みしめるようなプレゼントもある。 なぜなら、プレゼントというものは、言わば一瞬にしてまざまざと、贈るひとの配慮、センスの有り無しをどうぞとお目にかける代物であり、ゆえに、日本ではひとにモノを贈るときは、「つまらないものですが」とおそれながら照れながら、「ほんの気持ちです」「心ばかりのお礼に」「お口汚しに」と徹底してへりくだる逃げ口上が、贈り手の気恥ずかしさをやわらげ、もらい手の気遣いを軽くする。 しかしながら、今やわたしも普通にクチにしているプレゼント。カタカナ外来語だけに、そもそもは外国からきた風習。ということは、我思うゆえに我ありという「主体」に満ち溢れた西洋の精神文化では、相手が気に入るかどうかよりも、わたしがこれをあなたにあげたい、贈りたい、ギブしたい!と、いま、この胸にあふれる思いがまず大切。贈ったひとが気に入るかどうか、気に入ってもらえなかったらどうしようと思い煩う逡巡などは、気にしすぎ。そのひとことで済む話といってしまっていいだろう。 贈られた人の気持ちを忖度するより、自分がいいと思ったものを自分の好きに贈る。 とにかく、まずは自分あってのアナタ。 ワタシ贈るアナタ。アナタもらうワタシ。 何に付けてもワタシとアナタなしでは語れない。それが、西洋のプレゼントなのだ。 そして、そんな強靭なワタシ=アイデンティティみなぎる店長の贈り物の数々をまずは、ご覧いただきたい。         アラブ、アジア、アフリカ、遠い外国から帰ってくるたび、スーツケースから次々取り出される土産の品々。それって、いったい、何? 一瞬見ただけでは判別不能なサバンナの草、アラビアの砂漠の砂、地質学的に貴重だと豪語するイランの石をせっせと小袋に詰め分けながら、贈るひとの笑顔を思い浮かべているのか、おだやかな幸福感がこんもり伝わる丸い背中に、わたしは幾度問いかけただろう。 「そんなもんもらって、誰か、喜ぶか?」 「誰が?ハァ?(キミは何を言ってるんだと肩をすくめるジェスチャー付で)エブリバディ・ハッピーさ!」 贈るモノはなんであれ、ぼくがあなたに贈れば、あなたはきっとよろこぶに違いない。どこをどう掘ったらそんな自信が湧いて出るのか、誰ひとり知るよしもない思考の脈が、どうやら店長にはあるらしい。 生来、無精でめんどくさがり屋なわたしなどは、どこか旅行に行っても、よほど親しい友人以外にお土産を買うことはないのだが、プレゼント魔の店長は毎回毎回、是が非でも何かをみんなに買って帰ってくる。 いや、その気持ち、その思い、その真心はやさしいよ、うれしいよ、ありがたいよ店長。ただ、何というか、そう思う気持ちだけで十分なこともこの世にはあるということをどう言えば、「ワタシ、ワカル」日が来るのか。そんな日が来ることは、店長が店長である限り、おまえがおまえである限り永遠にないことを伝えてくれる店長のプレゼント。 思い起こせば5年前。隕石の衝突くらいの衝撃とともに店長と遭遇してしまったわたしだが、正直、日本で会ったのは2回ぽっきり。それからパリに帰った店長からいきなり届いたかなり大きい額入りの写真作品。 そもそも、とくに写真に興味があるわけでもなく、自宅に写真を飾るようなスペースもなければ、欲しいとも何とも言った覚えもない。もっといえば、いっぺんも見たこともない写真を額入りで2点、好みかどうか、いるかどうか、なんの伺いもなく海外から発送してくる突飛な発想。そこに、推して知るべき店長のなんたるかは見て取れたはずだった。なのに、そのときのわたしは、生まれて初めての外国人との交流にアタフタ緊張するばかりで、英語で感謝の意を伝えることしかできなかった。 今なら、その唐突なプレゼントは、自分という存在をわたしの生活の中にガッシリ押し込んでくる意味だったと容易に推察、「誰が欲しい言うたんよ!」と斬り込むこともできるが、5年前のその頃はまだ、そこまでの余裕はなかった。自分本来のひねた目線で、「はは〜ん」と底意地悪く人の腹を探ることを怠っていた。完全に抜かった、見落としていた。わたしとしたことが…。 その後、これが店長ですの紹介がてら、幼い頃、別れたパパのレストランに行ったときのこと。パパ夫妻、弟夫婦とその息子のポートレートを撮ってくれた店長。そして翌年、きっちりその家族写真を現像し、それなりに立派な額に入れ、パパのレストランに寄贈。 それは本当にいい写真で、わたしにも家族と呼べる存在がまだあるのだということを温かくも切なく思わせるものであった。だから、それはすごくありがたく心温まる贈り物ではあることは確かであり、なんの異存もないのだが、それにしてもと考えずにいられないこの違和感はなんだろう。 すると、その写真を見ながらパパがしみじみ捻り出したひとことに、そう、そういうことよ! と膝を打つ。 「まあ、やっぱりな、こうして額入りの写真を贈ってくるという、な。そういうことは、ちょっと、わしらにはできんことや。そんなもん贈られたら、もらったら、そらもう絶対店に飾る。毎日、それ見て、撮ってくれたもんのことを思うがな。アレ(店長)は、アレやな、プレゼントひとつにしても、ちゃんとそこに自分という存在をきっちり置きに来よる。何にしろ、わしらに “ないもん”、持っとることだけは確かやで」 いい意味でも、イヤな意味でも、ないもん持ってる。まさしく、それに尽きる。 それにつけても、なぜ、英語のプレゼント(present)は、現在、今というpresent と同じ綴りなのか。そして、存在を表すプレゼンス(presence)と似た言葉なのだろう。と、英語のコトバからたぐり寄せ考えると、店長世界のプレゼントの意味するところがズッシリ肩にのしかかるように伝わってくる。おそらく、それは、「今、あなたをこれほどに思っているわたしは、ここに!」 と自分の存在を託し、贈り、示すモノ。プレゼントとは、そういう代物なのだ。 サウジアラビアの砂一粒、イランの荒野の石ひとつ、どんなおしゃれなクリエイターのお宅もこれさえ履いてウロウロするば完璧にダサくなること確実なアメリカ・ミズーリー産のフリースパンツetc 、 そんな数々のプレゼントをもらったわたしたちは、そんなつもりはなくとも、そのモノに託されたその存在、そう店長をも受け取ってしまっている。 そして、たとえモノ自体はなんであれ、じわじわとありあまるほど思い知らせるのだ。 はちきれんばかりに詰め込まれた店長のメッセージを。 「ワタシ、ココニ!  」