マレ地区にある店長ギャラクシー界隈には、アート系のギャラリーが軒を連ねている。その多くは、どちらかというと奇抜で前衛的な現代美術を扱うギャラリーが多く、雰囲気も空気も気取りなく若々しい。
そんな中、ギャラクシーの前にある老舗ギャラリーだけは、その他のギャラリーとは趣の異なる重厚な風格を漂わせている。さもパリらしい風情をかもす中庭と小径(パサージュ)を持つ大御所ギャラリー、その名も「Z」。この界隈に今ほど多くのギャラリーができるずっと前、何もない殺風景な通りにアジア人の飲食店や食料品店がまばらにあるだけだった25年前、この通りに初めてギャラリーを作った草分け的存在がこの「Z」である。
6月のある日のこと。その「Z」のマダム、通称マダムZが、ひょっこり向かいの扉から現れ、「ボンジュール」とギャラクシーにやってきた。
展示中の写真作品を見渡したマダムZ。
「すてきだわ」「すばらしいわ」と大層興奮気味に嬉しそうに切り出してきた、いい話。
それは、マダムZが主催する「秋のフォトアート祭り in NY」への出展参加の誘いであった。
マダムZと店長の会話を小耳に挟みながら、次第に店長のその気、やる気、行く気がムクムクと高まっていく様子をつぶさに伝えてくるアヒル。
「帰ってきたら話すと思うけど、店長、NY、行く気やで。これはもう何かが起こる予感しかないわ」
その「マダムZ」が持ちかけてきたNY出展話というのは、こうである。
そもそも「Z」は、パリのみならずニューヨークにもギャラリーがあり、毎年、コレクター達を招いた秋のアートフェアなるものを過去10回以上主催している。そこで今年は、ロンドン、パリ、NYの個性的な写真作品を扱うギャラリーが参加しての「フォトアート・フェア」を大々的に行う予定であると。
ついては、NYでも注目度の高い日本の写真を扱うギャラリーとして、店長ギャラクシーにぜひとも出展いただき成功をおさめていただきたいと、なるほど、いい話である。
「どうするの? 行くの?」と問うチュンチュンに、何やら思い渋った様子で「maybe… but I don’t know」と、煮え切らぬ返事の店長。
思いあぐねる理由。それはもちろん、かなりの出費となるであろう参加費、渡航費、滞在費をどうするか。
なぜなら、たとえチャンスはチャンスでも、それならばと早々やすやす即決できるような金額ではない。
さらに、アートフェアの展示準備スタッフの確保という問題もある。
NYには、店長の姪っ子がいるとのことで、事前の準備は彼女に頼むとしても、右腕となって動いてくれるスタッフが必要だ。
通常なら、あんたの仕事はあんたのことと、凛と冷たく聞き流すわたしだが、さすがに、ニューヨークとなれば、話は別。
NYかぁ。NYといえば、一世を風靡したアメリカのドラマシリーズ「Sex and The City」に一時期ハマりまくっていたこのわたし。
キャリーが住んでいたアッパーイーストのアパルトマン、キャリー達の行きつけのカフェやショップがひしめくドラマの舞台マンハッタン、ウエストビレッジ、ブルックリンを歩いてみたい。行けるものなら行ってみたい。
わかった、わたしが、このチュンチュンが「行ったるわ!」と名乗りを上げるも、そんな遊び心いっぱいのミーハーな決意を即座にへし折る四角四面の店長。
「ハニー、アモーレ、プリンセス(誰がやねん…)
これはビジネスなんだ。自由時間などどこにもない。額の買い出しや展示の額装、壁掛け、1日、1時間、1分たりとも、遊んでいるヒマなどないんだよ」
これ以上、面白みのない返答に一気に興ざめ、怒りも露わに吐き捨てるチュンチュン。
「ふん、誰が行くか。気分悪いわ!」
その翌日。知らぬまに店長のNY行きはすでに決心済みであることをアヒルから知らされる。しかも、NY出展アシスタントとして店長に同行するのは誰かといえば、ほかに誰がいるであろう。店長銀河で一等輝くバイトの星・アヒルが、店長と共にNYへ旅立つこととなったわけである。
アヒルにしても、いつか機会があればと憧れていたNY。何しろそこは、アヒルの大好きなエンターテイメントの聖地。店長がいるNYに待ち受ける困難、わざわい、面倒、ストレスがどんなものかは勝手知ったるアヒルでも、NYのブロードウェイで、あの不朽の名作ミュージカル“CHICAGO”が見られるドリームに誘われ、店長と暮らす2週間のニューヨーク・ライフへ突撃する覚悟を決めたようである。
が、NY出陣を待たずして、出た、来た、マジか!? の「まさか」が踊る店長商店。NY出発前3週間という際になって、飛び込んできた衝撃の事実。
「店長、アメリカ入国不可!?」
そのタレコミ速報を送ってきたのも、これまたアヒル。
が、なぜかその日のアヒルの文面には、さあこれからどうなるか、そこからの展開を面白がるいつものふざけた覇気がなく、代わりに、万に一つのハズレを引いてしまったような、ヘナヘナと膝を折ってその場に倒れ込む当事者の悲愴とやりきれなさが滲んでいた。
どうしたアヒル!? なにごとか?と訊ねても、「店長から聞いて…」と、それ以上語る気力すら失われたアヒル。
「ありえないことしかありえないギャラクシー展開には慣れたと、ああ、慣れたさ、と思ってきたわたしやけど、今回のこれは、こんなことありか? というレベルや…」
店長に、そしてアヒルに、何が起きたのかー
じつは、2016年に起きたパリの同時多発テロ襲撃事件をうけ、アメリカではテロリストの渡航入国を防止する新法が施行されたていた。その新法によると、日本やフランスなどこれまでビザ取得が免除されている国籍の渡航者であっても、2011年3月1日以降にイラン、イラク、スーダン、シリア、リビア、ソマリア、イエメンに渡航または滞在したことがある者はビザ申請が必要というものである。(公務、人道支援、報道等の目的による渡航に対しては個別に審査された後に免除される可能性あり)
つまり、イラン、イラク、スーダン、シリアなどへ入国履歴がある者は、その理由や目的が「テロリストとは無関係」であることを証明した上で、特別措置の入国許可のビザ証を受け取り、初めてアメリカに入国できるというわけだ。
2011年以降と区切られるまでもなく、それ以前からも毎年のように、それこそ先月もイランへ、去年はイラクへ、むしろ、そんなヘビーな国にしか行っていない店長のパスポートは、危険国のスタンプラリーか、というほど、その手の国の印とビザ証に埋めつくされている。そんな者がJFケネディ空港の入国審査を通過できるか否か。どう考えても「否」である。
ならば、特別ビザを申請すればよいのだが、申請取得に必要な書類を集め、面談日を予約し、ビザの許可が下りるまでは3週間から1ヶ月、下手をすればもっとかかる。そんな新法ができている事実を知った5日後には東南アジアに飛び、そこから8月26日にパリに戻り、8月31日にアヒルとNYに向かう予定の店長に、特別措置のビザ申請を行う間はどこにもない。
というわけで、もし、というか、案の定、アメリカに入国できなかったとなると、店長ありきのNY展を一手にまかされてしまうのは、他の誰でもない。
ご存知、バイトの星・アヒルだ。
いや、これが単なる観光旅行なら、NYでもLAでもひとりで行って楽しんで帰ってくればいいだけなのだが、今回のNYは、展示プロモーションも含めたビジネスである。フランス語は話せても英語はムリ!というアヒルが単身NYに乗り込み、訪れるニューヨーカー達を相手にあの手この手のジャスチャーかパントマイムかで写真作家の魅力と価値を伝え、売り込み、アートフェアを成功させる。
誰がどう考えても「それはない」。
どんなに大丈夫じゃないことでも、どれほどありえないことでも大概のことはすべて他人事と適当に
「ca va 大丈夫よ」「c’est normal よくあることよ」「c’est la vie 人生そんなもんよ」と聞き流すフランス人ですら、
「もしかしたら入国できないかもしれないんだ」
「え、そうなったら誰が?」
「アヒルだよ」という店長の言葉に深い憐憫と苦笑をもらすほど、ムチャな話であることはいうまでもない。
僕が漕ぐから大丈夫と、威勢良く、サクセスの大海原を渡るはずの店長号。それが出航するやいなや、「さあ、ここからはひとり、見事泳いで帰ってこい!」と、いきなり轟爆のうずしお海峡に突き落とされるアヒルの受難。それもこれも、方法とルートさえ伝えれば、ひとは何でもできるという自分勝手な思い込みだけで生きている店長のせい、としかいいようがない。
万一、自分が入国できない場合にそなえ、NYのギャラリーの住所、アパートの住所、姪っ子の連絡先、額はこの店に注文しているから何日に額を受け取り、何日に搬入して… と膨大な説明を矢継ぎ早に一気にドッサリ伝えること。それが店長のベスト・ソリューション。
「さあ、これで何がどうなっても、何の心配もないよ、アヒル」と、ひとり力強くうなづく店長から渡された1トン級の鉄アレーを半分白目で受け取り、白目のまま走るしかないアヒルであった。
なんというか、こういう事態に陥ったとき、わたしが何より釈然としないのは、この窮地が、まるで誰にでも起こりうる致し方なき世の定めのような口ぶりで、「さあ、共に乗り越えよう」と旗を振り鼓舞してくるおまえ、あんた、貴様こそが、そもそもの発端であることを当の本人がまったく自覚していないことである。
たとえ、アメリカの法律がそうであるにせよ、毎度毎度、なぜ、そういう不穏な世界の網の目にまんまとピンポイントで引っかかるのか。
引っかからずに済む者も、この世には五万といる事実を眺め見よと。
まずは自らを自ら見つめ、かんがみ、ひれ伏す視点に立ってみれば、ペラペラと出てくる嫌味な英語のフレーズも違ってくると、わたしは思う。
「わがが、わががの“我”を捨てて、おかげおかげの“下(ゲ)”で暮らせ」そんな大和ごころを異なる星の異なものに唱え続けてはや4年。
「ワレ思うゆえにワレあり」のアイデンティティが掘を固める店長の牙城はいまだ腰を折ることなく、我こそはとそびえ立っている。
そんなわたしのスピリッツを英語でいえば、
「アイ、アイ、アイ、アイ、アイデンティティの“ティ”を捨てて、ユー、ユー、ユー、ユー、サンキュ、サンキュの“キュ”で暮らせ」
と言っているようなもので、それはもう、イングリッシュな店長には、何を言っているのか、何が言いたいのか、なんぼ言うてもわかるはずなどないのだが。
そうして、店長が入国できるか否かはJFケネディ空港に着いてからのお楽しみのまま時は過ぎ、その間、店長はオイル仕事で東南アジア各地へ。
かたやチュンチュンとアヒルは、万が一、いやもう十中八九、百発百中、空港のイミグレーション審査で、店長とバイトが生き別れになったときのシュミレーションをあれやこれやと思い浮かべ、その瞬間を想像すればするほどハラの底から込み上げてくる不条理な笑い。
JFケネディ空港の入国審査ゲート。いかにも強面なブラックアメリカンの審査官が怪訝な顔でパスポートとパソコンデータを交互に睨み照合するその緊迫とスリル。そして、何やらよくわからない英語で押し問答したあげく、激しく鳴るアラーム音。駆け付けた空港ポリスに取り押さえられ、脇をつかまれ引きずられるように、パリへと強制送還される店長ー。
ああ、誰かと声の限りに叫ぶ願いは、「誰か、カメラ、回して〜!」
「いやでも、もし、ひとりNYの展示場に捨て置かれることになったらもう、店長にはスカイプに張り付いてもらうしかないわ」
「アヒル、それや!展示ブースの真ん中のパソコン画面には常に店長が映し出され、写真にまつわる熱いスピーチを語り続ける。そして質問や興味のあるひとは、パソコンに向かって店長と対話することができる。アヒルはただそこに漫然と腰掛け、誰かが何やら英語で話しかけてきたら、「Yes, so… follow me Plese(ええ、でしたら、どうぞこちらへ」と、パソコンの中の店長に向かわせたらいいだけや。なんかこう水槽の中の脳ミソが指令を出すみたいなカルトファンタジーなギャラクシー展開をNYの皆さんにお届けしよう!」
「つまり、わたしはその「Follow me Plese」だけ覚えといたらいいわけやな」
「そういうこっちゃ」
と、店長不在のNYを切り抜ける秘策を見出したからには、店長とアヒルには悪いがここはひとつ「生き別れ」ていただくしかない。
「ソフィーの選択」か「大地の子」か、数々の名画ドラマの生き別れのシーンを思い巡らせ、それこそ銀河鉄道999のメーテルと鉄郎の別れのシーンさながらに、まさに因果鉄道ギャラクシー史上に残る爆笑名場面が生まれるであろう「そのとき」を求めてやまないわたしであった。
そして、当のアヒルとて、NHK『そのとき歴史が』松平定治アナの「今日の、そのときです」の名調子とともに、JFケネディ空港の入国審査窓口のあちらとこちらで、店長とバイトが生き別れる「そのとき」を、みずからもぎとる千載一遇のチャンスを、身を捨ててでもつかむ覚悟を決めていたことは確かである。
だが、しかし、望んだことは決して起こらぬギャラクシー。
なぜ!? ここで、そう来るか…。
8月31日
「そのとき、店長が帰らされる」今日のそのときへ向け、シャルル・ド・ゴール空港からNYへ旅立った店長とバイト。
今か今かと、腹をさすって笑いよじれる準備万端、ひとりニヤニヤほほ緩ませて寝ずに待っていたわたしのもとに、深夜3時をまわる頃、携帯を揺らすアヒルからの悲報。
「店長、入国」
なんだろう、この失望感。なんだろう、このさんざんジラして期待させて、これか? という欲求不満。
いや、入国できたら入国できるに越したことはない。が、ここで一発、わたしたちが欲っしていたもの、求めていたものは、断じてこのような無事、安堵などではない。
こちらの思惑通りには、決して、しない・させない・いかせない。ひとが思いもよらないことしか与えない。店長サプライズの厳しさ、忌ま忌ましさ、うっとうしさを目の当たりにしたかに思えたNY無事入国。けれど、そんな店長サプライズの恐ろしさをわれわれが思い知るのは、このNYの後、もうすこし先の話である。
とにもかくにも、目立った難なくNYのアパルトマンにたどりついた店長とアヒル。そんな2人を待ち受けていたのは、聞いていたマダムZのふれ込みとはどうも違う「アートフェア」であった。
というのは、NYの一等地のギャラリーで開催されるフェアにしたら、あまりにも訪れる来客数が少ない。パリ・ニューヨークを股に掛ける老舗ギャラリーのマダムZ、おそらくこれまでの絵画アートのフェアでは、何の宣伝努力をせずとも、すでに顧客に名を連ねるコレクターたちがこぞってやって来たのだろう。だが、今回は、マダムZ初めてのフォト・アート・フェア。既存の絵画アートを求めるコレクター層とは違う「写真」を求めるターゲット層を呼びこむためのプロモーションや宣伝を一切せず、誰がそれを知るというのか。
パリ・ニューヨーク・ロンドンからマダムズ・フェアに参加していたギャラリーの人々から噴出する割に合わない不満と文句。そんな人々の思いを一手に引き受け、ここぞとリーダーシップを発揮する者がそこにひとり。そう、店長だ。
イイコトづくめにステキまみれな口ぶりで参加を募るはいいが、DMひとつ、フライヤーひとつ、写真アートに強い雑誌・Webメディアへのプレス活動ひとつ、なんのプロモーションもしていなかったマダムZに、一同を代表し、理路整然と詰め寄り物申す店長。が、そうはいっても、もはや幕は開いている。いくら脚本が悪い、原作が面白くないとぼやいたところで、板に立ってしまった以上、自分の役目をせいいっぱい演じ切るしかない。
ちなみに、そんな店長がそれはそれはしつこく、ねちっこく、もうええやん!というほど執念深く「考えられないわ!」と、あたかも嫁の実家の親族の着物の帯の柄にありえないと目を剥いて格の違いをとくとくと説きまくる姑のごとく、大袈裟に身震いしながら愚痴っていたのは、マダムズのオープニングパーティのドリンクがビールと水だけだったことである。しかも、ビールは2$の有料。パーティのワインやドリンクからスナック、チーズ、サラミなどのおつまみはすべて無料で振る舞われるのがあたりまえのフランスのギャラリーシーンからしたら確かに考えられない。が、NYでは普通なのかどうかよくわからないが、それを3日3晩、同じことを同じボリュームで、今まさにホヤホヤの怒り立ての剣幕でボヤキ続ける店長というのも、相変わらずよくわからない。
1週間のフェア中、精一杯の熱き心で、ひとつひとつの作品について、ひとりひとりの写真家について語り上げ、NYの観客たちに、日本写真のなんたるかを伝え、ここまで来た爪痕を残そうと努めた店長。訪れるジャーナリストには、まるで自分が「広報担当です」といわんばかりのプレゼンテーションを実践したおかげで、いくつかのweb媒体への掲載にこぎつけ、NYのアート関係者やギャラリストとのつながりもできたという。それでも、やはりNYまで乗り込んだ甲斐があったと思える結果に至らなかったことに、いつになく自分を見つめ直し、自信を失いかけたような店長の姿があったことだけは確かであった。
その頃、久々の日本帰郷で、連日、懐かしい友人知人との再会飲みに明け暮れていたチュンチュンのもとに、毎朝同じ時間に配達される新聞のように、店長とアヒルから同時刻に届く「TODAY’s NY」と「本日の店長」。ハローワーク帰りの天満公園でハトにちぎったパンをやるおっちゃんのようにセントラルパークでリスにちぎったベーグルをやる店長。スタイリッシュに落ち着いた雰囲気のブルックリンのカフェで、おもむろに物憂げに「コーヒー占い」をする店長…
そんな、ちょっぴりセンチメンタルジャーニーな店長にチュンチュンができることといえば、「千客万来」「商売繁盛」の神さん、神田大明神にお札をもらいに走る。それくらいであった。
ただ、自分を見つめ直すといっても自分を責めるとか、情けないとか、やりきれないとか、これまでの自分の考え方や来し方を悔い改めるとか、そういう域にまでは死んでも落ち込まない頑丈なポジティブネットに支えられている店長の思考。せっかくNYに来たからにはNYを楽しもうと、展示と撮影仕事を兼ねて日本から駆け付けてくれたフォトグラファーのNさんとともにNYの街をカメラを手に歩きまわり、海辺の遊園地・コニーアイランドではしゃぎまくり、ブルックリンで服やバッグやご当地土産を買いあさり、「いま」を精一杯ひたむきにエンジョイする姿勢は、まあ、こういうときには大切だ。と同時に、砂浜で気持ちよさげに寝転がる店長、わたしが行きたかったブルックリンのカフェでくつろぐ店長、わたしが行きたかったブルックリンの古着屋でショッピングを楽しむ店長の写真を見ながら、この物語の冒頭、NY行きを志願したにもかかわらず、「キミが遊び回る自由時間など一切ないよ、ハニー」と蹴散らされたときの気分の悪さを苦々しく思い出すことも怠らない、言われたことは絶対に忘れない、そういう点では店長に負けず劣らず執念深いわたしである。
ちょっと哀愁、それでも陽気に幕を閉じた店長のNYだが、そんな中にも、咲かぬ花にも歌ひとつのサクセスあり。
実は、このNY出発以前、自己最高のデブに達していた店長は、チュンチュン式しらたきダイエット指導のもとに、懸命に減量に取り組む毎日であった。
南仏バカンス明けの7月末、持っている服やパンツがことごとく台無しになるほど肥え太り、75.8Kgの大台に「Oh my God!!!!!」の叫びを上げた店長。
それからは、チュンチュン元帥の「胃の縮小化」をめざした厳格な食事指導により、8月の1ヶ月で7kg減を達成。そして、目標まであと3kg減!の68kgで旅立ったNY。栄養素といえば脂肪と糖分だけしかなさげなアメリカンフードで、またもやデブに逆戻りかと危ぶまれたが、アヒルに託したダイエットメニューとエクササイズ、NYでしこたま買い込んだ脂肪燃焼サプリメント、いまいちNYの地理や地下鉄がよく分かっていないがゆえに迷いまくって歩きに歩かされる日々のおかげで、65kg台の減量サクセスを勝ち取った店長。おそらく、なにがあろうとトータルすると、彼の人生に悔いはない。
そうして、24時間つねにそこに店長がいる生活、店長だらけのNYをみっちり2週間体験し尽くし、NY展のプリント、荷物を抱え、アヒルはパリへ、そして店長はひとり、最愛のグランパ(じいちゃん)に逢いに、トム・ソーヤの冒険でおなじみのミシシッピー川が流れるアメリカ中西部の街・ミズーリーへ旅立った。
「まさかのアメリカ入国不可」の爆笑危機は肩すかしに終わったNYだったが、この後、わたしもアヒルも予想だにしなかったギャラクシー展開が訪れることになる。誰もが絶対引っかからない、おまえ以外誰も決められない運命のゴールネットを揺らしまくる店長の「そのとき」が炸裂するのは、NYを後にしてから10日後のことだった。
(続く)